すべての教育は「洗脳」である

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すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

久々に新書を読破しました。
私が敬愛する堀江貴文氏の『すべての教育は「洗脳」である』です。
教育に携わる者の端くれとして、この『教育=洗脳』というワードには関心が高まります。
本書には現在の義務教育のあり方や、日本のこれから進むべきグローバル化への示唆がたくさんありました。

学校は洗脳機関であるということ

誰もが等しく通うところ、それが学校である。
日本の現在の技術力、国力を支えてきた根幹をなすのが、我が国の教育である。
多少の異論はあるかもしれないが、ほとんどの人は納得できるのではないだろうか。

ただ、学校教育は、近年巷で騒がれている『ブラック企業』に繋がるものとして揶揄されている。
理不尽な校則、意味のない行事、ブラックな部活などなど枚挙にいとまない。
これはなぜなのか。

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。建前上は「個性を大切にしよう」「のびのびと育って欲しい」などというものの、その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。

(中略)

同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点をとったり、問題行動を起こしたりした子どもは、どうにか「規格内」になるように尻を叩く。そして、「会社」に納品する。

全くもって教育関係者にとっては耳の痛い話である。
もちろんこれは極論の部分もあるが、決して当たらずしも遠からずな部分もある。
学校では、出る杭は打たれてしまう。
勉強ができる子に対してリスペクトできないという気質は、日本人がDNAレベルにまで刻まれているのだろうかとも思うぐらい、どこでも頻繁に起こる。
そのことに対し、できる子は萎縮し、本当に自分がやりたいことはできなくなってしまう。
突き抜けた個性を持つ子供もまた同じ境遇に置かれている。

これは、子ども達だけではなく、教師集団にも言える。
優れた取り組み、独特な取り組み(いい悪いは別にして)をする教師は、常識がないと揶揄される。
そして、最終的に陥るのは型にはまった教育だ。
ここに日本教育の弱み、強いては社会の歪みがあると思う。

グローバルな視点を

著者は本書の中でG人材とL人材という2種類の人材について言及している。
G=グローバル、L=ローカルという意である。
グローバル化、国際化ということが謳われてもう随分と長い月日が経っている。
しかし、いまだに地元固執主義の人のなんと多いことか。
著者もまさにそのことを危惧している。
本人達が幸せならそれでもいいが、外にある世界に目を向けることで、新たな世界を見て欲しいと思う。自分自身、海外へ飛び出してプラスの経験ばかりだ。

さらにこれに併せて、貯蓄型、投資型の人間も存在していると定義している。
L人材で貯蓄型はただ我慢を目に見える形にしてしわあせを感じているだけである。
自分は投資型の人間でありたいと切に感じた。

これからの社会に向けて

教育に携わる自分が言うと本末転倒な気もするが、これからの学校教育は大きな転換期を迎えるのは間違いない。
今のままで行くと日本とともに沈んでいくのは目に見えている。
学校に頼ってばかりでは、この多様化した世の中で生き残ることは難しくなる。
いかに自分の存在を価値づけていくかが重要となってくる。
著者は本書で「3つのタグでの価値づけ」を提唱している。
しかも、そのタグは希少であれば希少であるほど良い。

たしかに、世の中にありふれた存在なら、誰も見向きもせずぬ埋もれていくだけだ。
ただ、そこに希少価値がつくと、一気に存在感が増す。
これからの人材に必要なのは、そのような価値だ。

終わりに

最初は学校教育の批判に終始していくのかと思ったが、著者の主張は一貫して、くすぶっている人へのアドバイスであり、叱咤激励であった。
この本を読んで動き出すか、それとも従来通り過ごしていくか。
各々がよく考える示唆をくれた1冊である。

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